早野龍五氏は語る、《ここはチェルノブイリではない、福島のデータをしっかり見よう》、と(5月27日ツイートより)。
2012年 5月 25日の日本版ウオール・ストリート・ジャーナルの記事「福島原発の放射性物質放出量、政府推計の2倍 チェルノブイリの17%相当」を思い起こそう。
たしかに。だが「政府推計の2倍」のほうが気になる人もいるだろう、つねに過小評価、初期から情報の隠蔽が続く。
ところで福島は水俣だろうか。ここは水俣ではないと言い得るだろうか。いやそれどころじゃない、そう思う人が多いだろう。
少しまえ、水俣と福島に共通する10の手口、と称する文があった。
早野氏は孤軍奮闘の様相をみせながらこの一年以上活躍され続けている。最近ではこんな発言もあった(リスクコミュニケーションについて、早野龍五先生と霞ヶ関の対話)。
《ここはチェルノブイリではない、福島のデータをしっかり見よう》と発言する早野氏が事故を過小評価したい連中に利用されなければよいのだが。
…………
蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で次のように書いている。
あるいは『ツナミの小形而上学』の著者、ジャン=ピエール・デュピュイは次のように「有能かつ誠実な」善意の科学者について語っている。
今、政治性と倫理性を抜きにして語りづらい状況にあるには違いない。
仮に自らの家族があのエリアに住んでいるとしよう。いかに「思った以上に安全」な科学的データがあっても、事情が許せばそこから逃げ出せるべく配慮するのではないか。
◆政治性については、田中康夫と浅田彰の「憂国呆談」から二つの発話を引用しよう。
◆倫理性については、次に少し長くなるが、以前抜き書きしてすこしくどくなるので投稿をやめたものを付記しておく。
…………
犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」である、と。
だが中井久夫はこの文に引き続き、医学はまず倫理的なものであるが、それでは不十分だ、とする(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)。
ここで記されている経済学をめぐる「心理学的要素」については、ケインズの美人投票論を思い出すにしくはない。「21世紀の資本主義論」(岩井克人)所収の小さなエッセイの中の、ギリシア神話や西鶴に触れられている箇所などでケインズの考えは思いがけない拡がりをもって書かれているが、ネット上では、ケインズの美人投票論について、岩井克人. 『自由放任主義の第二の終焉』にやや詳しい。(PDFファイル)。
あるいは日本では、震災後、識者たちが、その著書『ツナミの小形而上学』などへの言及して有名になったジャン=ピエール・デュピュイ、彼は《「科学的評価」のみの罠(倫理的、法律的といった他の規範から切り離された形での「客観的真実」を求める態度)により、チェルノブイリ・フォーラムの報告には、きわめて特殊な<死体の山の隠蔽>がされている》とか、《それは倫理的、法律的といった他の規範から切り離された形で科学的な評価をおこないうることを前提にしている。ですが、少なくともこの問題については、これを切り離すことができないというのが私の意見です》とか語っているのだが、このデュピュイにもケインズの美人投票論への言及がある。Intersubjectivity and Embodiment 2004( これもネット上にPDFあり)。
中井久夫を続ける。
上記引用からわかるように、科学は不確定部分を最小にしようとする。それが医学の科学的部分である、と。
ジジェクの『パララックス・ヴュー』から認知科学をめぐって語る箇所を引用してみよう(意識とは「躊躇」の別名)。
中井久夫の文とほぼ同じことが書かれている、ジジェクは、すべてが分ってしまったら、人間の《主体性》の喪失してしまう、ではある。ここからは、「人間が消滅してしまう」、へほんの一歩の遠さもない。
…………
ここで引用されたものは「科学」や「医学」批判ではない。
まずは理論的に考えることは欠かせない。次の文は「形式化」を「理論的」と読みかえることができないだろうか、あるいは「科学的」に、と。
最後に浅田彰のポール・ヴィリリオ『事故の博物館』をめぐる発言を付記しておこう。
以上
2012年 5月 25日の日本版ウオール・ストリート・ジャーナルの記事「福島原発の放射性物質放出量、政府推計の2倍 チェルノブイリの17%相当」を思い起こそう。
たしかに。だが「政府推計の2倍」のほうが気になる人もいるだろう、つねに過小評価、初期から情報の隠蔽が続く。
ところで福島は水俣だろうか。ここは水俣ではないと言い得るだろうか。いやそれどころじゃない、そう思う人が多いだろう。
少しまえ、水俣と福島に共通する10の手口、と称する文があった。
1、誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する
2、被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む
3、被害者同士を対立させる
4、データを取らない/証拠を残さない
5、ひたすら時間稼ぎをする
6、被害を過小評価するような調査をする
7、被害者を疲弊させ、あきらめさせる
8、認定制度を作り、被害者数を絞り込む
9、海外に情報を発信しない
10、御用学者を呼び、国際会議を開く
早野氏は孤軍奮闘の様相をみせながらこの一年以上活躍され続けている。最近ではこんな発言もあった(リスクコミュニケーションについて、早野龍五先生と霞ヶ関の対話)。
《ここはチェルノブイリではない、福島のデータをしっかり見よう》と発言する早野氏が事故を過小評価したい連中に利用されなければよいのだが。
…………
蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で次のように書いている。
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、……
あるいは『ツナミの小形而上学』の著者、ジャン=ピエール・デュピュイは次のように「有能かつ誠実な」善意の科学者について語っている。
原子力関連の国際機関に対してどのような批判ができるでしょうか。私は、そこで働くのは有能かつ誠実な人々だと賭けてもいいと思います。(……)
われわれを統治す人々の〈意図〉など重要ではありません。重要なのは状況です。倫理的な問いを別の領域に追いやり、最終的には二次的な領域に追いやるという精神です。核を扱う人々の悪意ではなく、この構造こそ悪=厄災の主要な源にほかならないのです。(チェルノブイリとフクシマ、あるいはデュピュイと中川恵一氏の見解の相違をめぐって)
今、政治性と倫理性を抜きにして語りづらい状況にあるには違いない。
仮に自らの家族があのエリアに住んでいるとしよう。いかに「思った以上に安全」な科学的データがあっても、事情が許せばそこから逃げ出せるべく配慮するのではないか。
◆政治性については、田中康夫と浅田彰の「憂国呆談」から二つの発話を引用しよう。
浅田)……原発相の細野豪志が福島に行って、最終処分場にはしないからここに放射性廃棄物の中間処分場を造らせてほしいって言った。じゃあ最終処分場はどこにするわけ? 福島の人たちは本当に気の毒だけれど、事故を起こした原発はチェルノブイリと同じで100年経っても完全な解体処理なんかできそうもないんだから、あそこを中心に最終処分場を造るほかない、近隣の危険区域の住民には十分な補償を払って安全な地区に集団移転してもらうほかない、と思うな。ただ、それを辺境のゴミ捨て場みたいにはしない。老朽化した原子力発電所を廃炉にする技術も含めて、原発の後始末に関する技術は世界でこれからますます必要になるんだから、日本は先頭に立って推進すべきなんで、その中心にすればいいんだよ。放っといたら原子力関連の分野なんて工学部でも誰も行きたがらないんで、いまこそエリートを集めて原子力や放射能の専門家を育てるといったことも、国策としてやっていかないと。
浅田)東日本大震災から1年が経ったけど、原発事故は後始末のメドさえつかないし、がれき処理にしろ、仮設を超える本格的な住宅建設にしろ、地場産業の立て直しにしろ、復興はほとんど進まないまま。そりゃ阪神・淡路大震災と比べても3県に及ぶ巨大な被害だから大変なのはわかるけど、これではあまりにひどいんじゃない?
田中)……がれきの広域処理問題で細野豪志が「(被災地以外の地域が)受け入れらない理屈は通らない」と叫んでいるけど、通らない理屈はお前だよ(苦笑)。兵庫県1県の、それも実質的に阪神間の範囲だった阪神・淡路大震災のがれきは政府資料で2000万トン。岩手・宮城・福島3県に及ぶ今回が2300万トン。前回よりも単位面積あたりの分量は少ないし、逆に処分場の適地は数多い。ところが1年経っても6%しか処理できていない。だから、20%を全国で分かち合うのが絆。それに反対するのは非国民とマスメディアも大合唱。でもね、その「大政翼賛」が成就しても、がれきの26%に過ぎない。政府が示すべきは残り74%を被災地でいかに処理して地元雇用を創出するかの工程表で、だから、「広域処理」=無為無策な「政治主導」の失敗を目眩ますキャンペーンなんだよ。
◆倫理性については、次に少し長くなるが、以前抜き書きしてすこしくどくなるので投稿をやめたものを付記しておく。
…………
犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」である、と。
だが中井久夫はこの文に引き続き、医学はまず倫理的なものであるが、それでは不十分だ、とする(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)。
少なくとも、もう一点で、医学は科学と相違する。それは、囲碁や将棋が数学化できるかどうかという問題と本質的に同じである。囲碁や将棋は数学化できない。それは、科学とちがって徹底的に対象化することのできない「相手」があるからである。「対象」ではなく「相手」である。わかりやすいために、殺伐な話だが戦争術を考えてみるとよい。実験的法則科学はいつも成立しなければならないが、「必ず勝てる」軍事学はない。もしできれば、人間に理性がある限り、戦争は起こらない。それでも起これば、それは心理学か犯罪学という「綜合知」の対象である。経済学でもよい。インフレやデフレなどの経済学的不都合を絶対に克服する学ではなく、その確実な予測の学でさえない。これらが向かい合うものは「相手」である。科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。ところが、囲碁や将棋や戦争術は相手の予想外に出ようとする主体間の術である。なるほど、経済学は、常に最大利益を得ようとして行動する「経済人(ホモ・エコノミクス)」というものを仮定しているが、これは人工的な対象化であって、経済学が経済の実態の予測を困難にしている一因である。それは、経済学の対象すなわち経済行動を行う人間の持つ、利益追求の欲望以外の心理学的要素の大きさを重々自覚しながら、これを数理化できないために排除しているからである。つまり、科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきた。現在、むき出しの「市場原理」が復権をとげている。「市場原理」ならばローマ時代、いや太古からあった。(186頁)
ここで記されている経済学をめぐる「心理学的要素」については、ケインズの美人投票論を思い出すにしくはない。「21世紀の資本主義論」(岩井克人)所収の小さなエッセイの中の、ギリシア神話や西鶴に触れられている箇所などでケインズの考えは思いがけない拡がりをもって書かれているが、ネット上では、ケインズの美人投票論について、岩井克人. 『自由放任主義の第二の終焉』にやや詳しい。(PDFファイル)。
あるいは日本では、震災後、識者たちが、その著書『ツナミの小形而上学』などへの言及して有名になったジャン=ピエール・デュピュイ、彼は《「科学的評価」のみの罠(倫理的、法律的といった他の規範から切り離された形での「客観的真実」を求める態度)により、チェルノブイリ・フォーラムの報告には、きわめて特殊な<死体の山の隠蔽>がされている》とか、《それは倫理的、法律的といった他の規範から切り離された形で科学的な評価をおこないうることを前提にしている。ですが、少なくともこの問題については、これを切り離すことができないというのが私の意見です》とか語っているのだが、このデュピュイにもケインズの美人投票論への言及がある。Intersubjectivity and Embodiment 2004( これもネット上にPDFあり)。
中井久夫を続ける。
上記引用からわかるように、科学は不確定部分を最小にしようとする。それが医学の科学的部分である、と。
では、ありとあらゆる場合を予想して方策を立てれば、医学はついに科学となるであろうか。すでにチェスではコンピュータがしばしば名人を負かしているではないか。この場合、チェスをするコンピュータは科学によって作られたものだが、科学を離れて、「相手」のある領域に入り込んでいるんほである。実際、負けたり勝ったりするではないか。
いや、コンピュータをもっと進歩させれば、チェスで必ず勝つであろう。いや今は勝てない碁や将棋でも必ず勝てるであろうという議論があるかもしれない。これは科学の勝利であるーーと。それは科学の勝利ではあるか、科学になったのではない。そういうコンピュータができて、それが普及すれば、そのゲームは魅力を失い、やがて消滅するであろう。つまり、問題そのものがなくなってしまう。(188頁)
ジジェクの『パララックス・ヴュー』から認知科学をめぐって語る箇所を引用してみよう(意識とは「躊躇」の別名)。
if I were to “really know” the mind of my interlocutor, intersubjectivity proper would disappear; he would lose his subjective status and turn—for me—into a transparent machine. In other words, not-being-knowable to others is a crucial feature of subjectivity……
中井久夫の文とほぼ同じことが書かれている、ジジェクは、すべてが分ってしまったら、人間の《主体性》の喪失してしまう、ではある。ここからは、「人間が消滅してしまう」、へほんの一歩の遠さもない。
…………
ここで引用されたものは「科学」や「医学」批判ではない。
まずは理論的に考えることは欠かせない。次の文は「形式化」を「理論的」と読みかえることができないだろうか、あるいは「科学的」に、と。
形式化は、情報社会において、われわれのほとんど日常的といっていいような生の条件です。われわれは、そこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になっているだけで、実は天使と同じくモノクロームの世界、すなわち自己同一性の世界に閉じ込められています。われわれは、ブラウン管を通して血塗れの死体を見慣れているが、いわば実際に血の色をみたことがないのです。つまり、シュミラクルというやつです。しかし、今や歴史そのものがシュミラクルなのです。)
……永劫回帰とは、あるいは反復(キルケゴール)とは、この同一性の円環(形式化、あるいは構造主義:引用者)から出ることではなかったでしょうか。ツァラトストラは、この同一性から、すなわち、山から地上におりてくる、いいかえれば、人間になろうとする「天使」ではなかったでしょうか。「善悪の彼岸」において、初めて倫理性が問われるのではないでしょうか。
しかし、「天使」たることは不可欠であり、かつ不可避的であると、私はいいたいのです。われわれは、いちど徹底的に「形式的」となるのでないならば、「人間」にはならないだろう、と。形式主義とは、人間主義の死です。だが、そこで初めて、新しい「人間」について語りうるのかもしれなせん。有限で一回的なこの生を肯定しうるような「人間」について。それは、必ず元「天使」であったはずです。(「形式化」からの脱却、あるいは「天使」から元「天使」へ 柄谷行人)
最後に浅田彰のポール・ヴィリリオ『事故の博物館』をめぐる発言を付記しておこう。
繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。
以上


