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ここはチェルノブイリではない(早野龍五)、あるいは「医学は科学か」(中井久夫)

早野龍五氏は語る、《ここはチェルノブイリではない、福島のデータをしっかり見よう》、と(5月27日ツイートより)。

2012年 5月 25日の日本版ウオール・ストリート・ジャーナルの記事「福島原発の放射性物質放出量、政府推計の2倍 チェルノブイリの17%相当」を思い起こそう。

たしかに。だが「政府推計の2倍」のほうが気になる人もいるだろう、つねに過小評価、初期から情報の隠蔽が続く。

ところで福島は水俣だろうか。ここは水俣ではないと言い得るだろうか。いやそれどころじゃない、そう思う人が多いだろう。

少しまえ、水俣と福島に共通する10の手口、と称する文があった。
1、誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する
2、被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む
3、被害者同士を対立させる
4、データを取らない/証拠を残さない
5、ひたすら時間稼ぎをする
6、被害を過小評価するような調査をする
7、被害者を疲弊させ、あきらめさせる
8、認定制度を作り、被害者数を絞り込む
9、海外に情報を発信しない
10、御用学者を呼び、国際会議を開く


早野氏は孤軍奮闘の様相をみせながらこの一年以上活躍され続けている。最近ではこんな発言もあった(リスクコミュニケーションについて、早野龍五先生と霞ヶ関の対話)。

《ここはチェルノブイリではない、福島のデータをしっかり見よう》と発言する早野氏が事故を過小評価したい連中に利用されなければよいのだが。

…………

蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で次のように書いている。
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、……


あるいは『ツナミの小形而上学』の著者、ジャン=ピエール・デュピュイは次のように「有能かつ誠実な」善意の科学者について語っている。
原子力関連の国際機関に対してどのような批判ができるでしょうか。私は、そこで働くのは有能かつ誠実な人々だと賭けてもいいと思います。(……)

われわれを統治す人々の〈意図〉など重要ではありません。重要なのは状況です。倫理的な問いを別の領域に追いやり、最終的には二次的な領域に追いやるという精神です。核を扱う人々の悪意ではなく、この構造こそ悪=厄災の主要な源にほかならないのです。(チェルノブイリとフクシマ、あるいはデュピュイと中川恵一氏の見解の相違をめぐって


今、政治性と倫理性を抜きにして語りづらい状況にあるには違いない。

仮に自らの家族があのエリアに住んでいるとしよう。いかに「思った以上に安全」な科学的データがあっても、事情が許せばそこから逃げ出せるべく配慮するのではないか。

◆政治性については、田中康夫と浅田彰の「憂国呆談」から二つの発話を引用しよう。
浅田)……原発相の細野豪志が福島に行って、最終処分場にはしないからここに放射性廃棄物の中間処分場を造らせてほしいって言った。じゃあ最終処分場はどこにするわけ? 福島の人たちは本当に気の毒だけれど、事故を起こした原発はチェルノブイリと同じで100年経っても完全な解体処理なんかできそうもないんだから、あそこを中心に最終処分場を造るほかない、近隣の危険区域の住民には十分な補償を払って安全な地区に集団移転してもらうほかない、と思うな。ただ、それを辺境のゴミ捨て場みたいにはしない。老朽化した原子力発電所を廃炉にする技術も含めて、原発の後始末に関する技術は世界でこれからますます必要になるんだから、日本は先頭に立って推進すべきなんで、その中心にすればいいんだよ。放っといたら原子力関連の分野なんて工学部でも誰も行きたがらないんで、いまこそエリートを集めて原子力や放射能の専門家を育てるといったことも、国策としてやっていかないと。
浅田)東日本大震災から1年が経ったけど、原発事故は後始末のメドさえつかないし、がれき処理にしろ、仮設を超える本格的な住宅建設にしろ、地場産業の立て直しにしろ、復興はほとんど進まないまま。そりゃ阪神・淡路大震災と比べても3県に及ぶ巨大な被害だから大変なのはわかるけど、これではあまりにひどいんじゃない?

田中)……がれきの広域処理問題で細野豪志が「(被災地以外の地域が)受け入れらない理屈は通らない」と叫んでいるけど、通らない理屈はお前だよ(苦笑)。兵庫県1県の、それも実質的に阪神間の範囲だった阪神・淡路大震災のがれきは政府資料で2000万トン。岩手・宮城・福島3県に及ぶ今回が2300万トン。前回よりも単位面積あたりの分量は少ないし、逆に処分場の適地は数多い。ところが1年経っても6%しか処理できていない。だから、20%を全国で分かち合うのが絆。それに反対するのは非国民とマスメディアも大合唱。でもね、その「大政翼賛」が成就しても、がれきの26%に過ぎない。政府が示すべきは残り74%を被災地でいかに処理して地元雇用を創出するかの工程表で、だから、「広域処理」=無為無策な「政治主導」の失敗を目眩ますキャンペーンなんだよ。


◆倫理性については、次に少し長くなるが、以前抜き書きしてすこしくどくなるので投稿をやめたものを付記しておく。

…………

犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」である、と。

だが中井久夫はこの文に引き続き、医学はまず倫理的なものであるが、それでは不十分だ、とする(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)。
少なくとも、もう一点で、医学は科学と相違する。それは、囲碁や将棋が数学化できるかどうかという問題と本質的に同じである。囲碁や将棋は数学化できない。それは、科学とちがって徹底的に対象化することのできない「相手」があるからである。「対象」ではなく「相手」である。わかりやすいために、殺伐な話だが戦争術を考えてみるとよい。実験的法則科学はいつも成立しなければならないが、「必ず勝てる」軍事学はない。もしできれば、人間に理性がある限り、戦争は起こらない。それでも起これば、それは心理学か犯罪学という「綜合知」の対象である。経済学でもよい。インフレやデフレなどの経済学的不都合を絶対に克服する学ではなく、その確実な予測の学でさえない。これらが向かい合うものは「相手」である。科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。ところが、囲碁や将棋や戦争術は相手の予想外に出ようとする主体間の術である。なるほど、経済学は、常に最大利益を得ようとして行動する「経済人(ホモ・エコノミクス)」というものを仮定しているが、これは人工的な対象化であって、経済学が経済の実態の予測を困難にしている一因である。それは、経済学の対象すなわち経済行動を行う人間の持つ、利益追求の欲望以外の心理学的要素の大きさを重々自覚しながら、これを数理化できないために排除しているからである。つまり、科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきた。現在、むき出しの「市場原理」が復権をとげている。「市場原理」ならばローマ時代、いや太古からあった。(186頁)

ここで記されている経済学をめぐる「心理学的要素」については、ケインズの美人投票論を思い出すにしくはない。「21世紀の資本主義論」(岩井克人)所収の小さなエッセイの中の、ギリシア神話や西鶴に触れられている箇所などでケインズの考えは思いがけない拡がりをもって書かれているが、ネット上では、ケインズの美人投票論について、岩井克人. 『自由放任主義の第二の終焉』にやや詳しい。(PDFファイル)。

あるいは日本では、震災後、識者たちが、その著書『ツナミの小形而上学』などへの言及して有名になったジャン=ピエール・デュピュイ、彼は《「科学的評価」のみの罠(倫理的、法律的といった他の規範から切り離された形での「客観的真実」を求める態度)により、チェルノブイリ・フォーラムの報告には、きわめて特殊な<死体の山の隠蔽>がされている》とか、《それは倫理的、法律的といった他の規範から切り離された形で科学的な評価をおこないうることを前提にしている。ですが、少なくともこの問題については、これを切り離すことができないというのが私の意見です》とか語っているのだが、このデュピュイにもケインズの美人投票論への言及がある。Intersubjectivity and Embodiment 2004( これもネット上にPDFあり)。

中井久夫を続ける。

上記引用からわかるように、科学は不確定部分を最小にしようとする。それが医学の科学的部分である、と。
では、ありとあらゆる場合を予想して方策を立てれば、医学はついに科学となるであろうか。すでにチェスではコンピュータがしばしば名人を負かしているではないか。この場合、チェスをするコンピュータは科学によって作られたものだが、科学を離れて、「相手」のある領域に入り込んでいるんほである。実際、負けたり勝ったりするではないか。

いや、コンピュータをもっと進歩させれば、チェスで必ず勝つであろう。いや今は勝てない碁や将棋でも必ず勝てるであろうという議論があるかもしれない。これは科学の勝利であるーーと。それは科学の勝利ではあるか、科学になったのではない。そういうコンピュータができて、それが普及すれば、そのゲームは魅力を失い、やがて消滅するであろう。つまり、問題そのものがなくなってしまう。(188頁)

ジジェクの『パララックス・ヴュー』から認知科学をめぐって語る箇所を引用してみよう(意識とは「躊躇」の別名)。
if I were to “really know” the mind of my interlocutor, intersubjectivity proper would disappear; he would lose his subjective status and turn—for me—into a transparent machine. In other words, not-being-knowable to others is a crucial feature of subjectivity……


中井久夫の文とほぼ同じことが書かれている、ジジェクは、すべてが分ってしまったら、人間の《主体性》の喪失してしまう、ではある。ここからは、「人間が消滅してしまう」、へほんの一歩の遠さもない。

…………

ここで引用されたものは「科学」や「医学」批判ではない。

まずは理論的に考えることは欠かせない。次の文は「形式化」を「理論的」と読みかえることができないだろうか、あるいは「科学的」に、と。
形式化は、情報社会において、われわれのほとんど日常的といっていいような生の条件です。われわれは、そこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になっているだけで、実は天使と同じくモノクロームの世界、すなわち自己同一性の世界に閉じ込められています。われわれは、ブラウン管を通して血塗れの死体を見慣れているが、いわば実際に血の色をみたことがないのです。つまり、シュミラクルというやつです。しかし、今や歴史そのものがシュミラクルなのです。

……永劫回帰とは、あるいは反復(キルケゴール)とは、この同一性の円環(形式化、あるいは構造主義:引用者)から出ることではなかったでしょうか。ツァラトストラは、この同一性から、すなわち、山から地上におりてくる、いいかえれば、人間になろうとする「天使」ではなかったでしょうか。「善悪の彼岸」において、初めて倫理性が問われるのではないでしょうか。

しかし、「天使」たることは不可欠であり、かつ不可避的であると、私はいいたいのです。われわれは、いちど徹底的に「形式的」となるのでないならば、「人間」にはならないだろう、と。形式主義とは、人間主義の死です。だが、そこで初めて、新しい「人間」について語りうるのかもしれなせん。有限で一回的なこの生を肯定しうるような「人間」について。それは、必ず元「天使」であったはずです。(「形式化」からの脱却、あるいは「天使」から元「天使」へ 柄谷行人



最後に浅田彰のポール・ヴィリリオ『事故の博物館』をめぐる発言を付記しておこう。
繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。


以上
# by yokato41 | 2012-05-27 16:56 | 批評・思想 | Trackback | Comments(0)

原発、あるいは怪物的なほど大きい規模の、神に向けられた侮蔑(大江健三郎)

以下は、大江健三郎『大いなる日に』――『燃えあがる緑の木・第三部』から。ただし初出の「新潮」(1995 3月号)からである。

大江氏は、発表後も驚くほど多くの手直しをすることで知られている。たとえば、参照としては、次のものを見るとよい→大江健三郎「﨟たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」を読む!。ここには、文芸誌初出と単行本となった文章との比較がなされている。

要するに、下記の引用ものちほど多く手直しがなされているだろうが、いま私の手許には、第一部、第二部は、書籍としてあるのだが、この第三部だけは、「新潮」掲載文しかなく、やむえずそこから引用する。

新興宗教の教祖のような位置にいつのまにかなってしまった、ときには優柔不断な性格をもつとも受けとれることのある主人公の「新しい」ギー兄さん、――ここで「新しい」とするのは大江の以前の小説に再三出てくる「ギー兄さん」とは別の、という意味だが、ーーその「救い主」の巡礼団体が反原発運動に向けての「集中」の行進を行うときの「説教」として次のようにジョージ・ケナンの言葉を挙げつつ語る。ここでも断っておけば、「集中」とはこの教団の「祈り」の意味であり、「説教」も、あたかも仲間たちに語りかけるような仕方のものである。さらに言えば、ジョージ・ケナンの『核の迷妄』のなかの言葉は大江健三郎のノーベル賞受賞講演「あいまいなる日本の私」でも下記に引用された文も含めてもう少し長く引用されて語られている。
われわれがそれについて話している文明は、われわれの世代のみの所有ではない。われわれはその所有者ではなく、単に保管者なのである。それはわれわれより無限に大きく、重要な何物かである。それは全体であり、われわれは単なる部分である。われわれがそれを達成したのではなく、ほかの者たちが達成したのだ。われわれはそれを創造しなかった。われわれはそれを受け継いだのだ。それはわれわれにあたえられた。しかも次のような暗黙の義務とともにあたえられたのだ。慈しみ、よく保ち、発展させ、望むべくは改良して、あるいは少なくとも壊さず、そのままにわれわれの後に来るべき者らに渡せという、そのような暗黙の義務とともに。

続いてケナンは、核兵器があらためて実際に使用されることがあれば、それは怪物的なほど大きい規模の、神に向けられた侮蔑だといっています。さて、その大きい事故が、核兵器の使用にひとしい惨禍をもたらす施設として、いま原子力発電所が作動していることは誰もが認めるでしょう。しかも、いやこの国の原発で大事故は決して起らぬ、といいたてる勢力が、それを作動させ続けているわけです。

そこで私たちはかれらに向けていう。もっとも起りそうにない、ほとんど起りえぬ事故であれ、もし起れば、その事故は怪物的なほど大きい規模の、神に向けられた侮辱である、そのような人間の作った施設と共に生きることにあなたは合意するのか?  

私たちは、そのような侮蔑を神に向けて働くことを恐れる。私たちそれぞれが、自分で神と呼ぶ対象はバラバラであるかも知れない。しかしそのような侮蔑を働きたくない相手をひとしく神と呼ぶなら、私たちはひとつの神の前にある。私たちの教会は、神について明確な定義をずっと持たなかった、しかしいま初めて、お互いに確認しあえる神の定義を持っているということではないか?


この作品が最初に発表された1995年3月とは、例の「オウム」事件が巷間を賑わした、つまり1995年3月20日の地下鉄サリン事件の直前のことであり、大江健三郎は、後ほど、新興宗教の教団を取り扱いながら、オウム事件を予測できなかったことを、「想像力の不足」と恥じているが、しかし逆にそれはほとんど予測していたといいうる内容でもある。そして2011年の早春の出来事、あるいはそれ以降の政財界、マスコミなどの言論界、その右顧左眄の醜悪さの「予測」についてはいうまでもない。

「ギー兄さん」は、若狭湾沿岸の原発銀座に粘り強く反対を続けている現地グループと繋がりができた経緯を語っているなかで、次のように言う。
……現に私たちが伝道で出会う、原発に反対する各地のグループも、基本的には私たちに批判を持っていて、あるいはそうでなくても、ひとつ揉んでやろうか、という気持で質問をしかけてくるのが一般(……)。

かれらがこぞって愛読している大新聞社の硬派週刊誌の、花田記者の連載で、教会とギー兄さんと、そしてKさんまでが飛ばっちりを受けて、なにも脈絡のなることは考えられぬ原理主義者〔ファンダメンタリスト〕、と嘲弄されているのを読んだことから、私たちの教会の行進について知ったわけです。つまりもともと持っていた資質を大新聞の規模で夜郎自大化したジャーナリストは、こうした品性の人間なりに役割を果しているのです。


「大新聞社の硬派週刊誌」、「花田記者」、「Kさん」が、何を、誰をモデルにしているかは大江の読者であれば一目瞭然であろう。まあそれはこの際どうでもよろしい。

ここで注目すべきなのは、「もともと持っていた資質を大新聞の規模で夜郎自大化した」知識人、――それは現在は、合理的な「科学者」であったり現実的な「経済評論家」だったりしてもよいし、またここでの「大新聞の規模の夜郎自大化」は、現在はツイッターやブログなどの大規模性による夜郎自大化としてもよいが、それら驚くほどの「品性」の下劣な連中の跳梁跋扈をも大江の小説は予測していることだ。そしてここでも大江=ギー兄さんに倣って、かれらを批判することなく、あの連中もなんらかの「役割を果している」のだろうとしておこう。

実はこの文は、昨晩、ツイッター上で、大江健三郎の『核時代の想像力』(2007年版)に言及する次の文を読んだことにより書かれている、その《あとがきにおいて、「原子力発電所」で蓄積されてきた日本及び世界中の「核廃棄物」が、もはやその総量において「臨界」に達してしまっているのではないかという禍々しい認識を提示する》と。

ここでは、大江健三郎の過去のすぐれた言葉を思い起こすためにも、もうひとつ、「あいまいな日本の私」から、ミラン・クンデラの言葉を引いて語る文を抜き出しでおく。
ミラン・クンデラという作家がいます。・・・かれが、権力を持っている強い連中のやり方は、忘れさせることだ、ひどいめにあったことは忘れさせて、もう一度同じことをやらせようというのが権力の考えることだというんです。その反対に、記憶し続けること、覚えているということが弱い民衆の武器なんだ。弱い人間は覚えていなきゃいけない、記憶していなきゃいけない。忘却を強いられるとき、われわれが抵抗する唯一の道は記憶することだ、とクンデラはいうのです。それはブルクハルトの考え方とも重なり合っていると思います。


以上
# by yokato41 | 2012-05-27 12:35 | 批評・思想 | Trackback | Comments(0)

遅発性外傷障害、ポスト・トラウマ(中井久夫、プルースト、ジジェク)


まず一般的な「トラウマ」をめぐって。
被害者は「有徴者 the marked」である。疎外されがちである。この疎外はおそらく非有徴者たちの生存に有利なのだろう。共感しうる少数者は、その共感による苦痛と、当事者でないことによる一種の罪悪感あるいは後ろめたさとの間に板挟みになり、さらに一般大衆からの疎外感を味わう。建前はともかく、実際に心的外傷の治療を志す医師が少ないこと、そういう医師が孤立しがちなこと、心的外傷患者が精神科医にも必ずしも歓迎されていないのではないかという恐れは、まだ治療法が確立していないという理由だけによるものだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出 2006 『日時計の影』48頁)


中井氏は阪神淡路大震災の直後から、おりにふれ他家のペットを観察したそうだ。
動物は端的に苦痛を表出し、強迫とヒステリー行動を示し、生命にかかわる拒食や変形を残す自傷を行い、時に死ぬが、また適切な精神療法に反応し、臨床心理士の実習に取り入れてよいとさえ思われる。ただ、擬人化した思い込みは、ある程度は人間の本性に根ざしたもので避け難い。しかし、その自覚は必要だろう。

「我慢する」動物ゆえに、ヒトの外傷は動物よりも発見が困難である。外傷的原因が特定できる阪神・淡路大震災においても、精神科医たちは初めPTSDが非常に少ないという印象を持った。(「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』95頁)

※トラウマ=心的外傷の簡単な定義を付記する、
心的外傷(しんてきがいしょう)とは、外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。外傷体験 (traumatic experience) ともいう。これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。――ウィキペディアより。


瞬間的な衝撃の侵入がある、暴力的なもの、それがごく普通の生活の襲う、それによって「心的外傷」経験をする。だが、
遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』95頁)


プルーストを挿入しておこう(もともとプルーストの『失われた時を求めて』の題名は、この箇所の副題である「心情の間歇」という名が全篇の題として考えられていた時期があることが知られている)。
私の全人間の転倒。(……)私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられて、どっと目から涙が流れた。(……)私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった。(……)こうした私は、彼女の腕のなかにとびこみたいはげしい欲望にかきたてられ、たったいまーーーその葬送後一年以上も過ぎたときに、しばしば事実のカレンダーを感情のそれに一致させることをさまたげるあの時間の錯誤のためにーーーはじめて祖母が死んだことを知ったのだ。(「ソドムとゴモラ 二」 井上訳)


中井久夫に戻る。
非常に遅れて始まるケースが長くかかることは昔から知られている。震災後五年、十年目に始まったという症例がある。おそらく、何らかの防衛機制が力尽きはてて発症するのであろう。(「トラウマについての断想」『徴候・外傷・記憶』61頁)

ところで、トラウマは一般には瞬間的な異物の暴力的侵入による心の傷と捉えられているが、トラウマ的状況が継続的であるならどうだろう、それが今後何年も続くようなら?“what about those for whom trauma is a permanent state of things, a way of life……?”(Zizek)

そう、東北にあるあの地の周辺エリアの人びとのように。いやそれだけでなく、日本の多くのエリアにいるだろう「共感しうる少数者」も同じく。

冒頭の中井の文を再掲しよう、《共感しうる少数者は、その共感による苦痛と、当事者でないことによる一種の罪悪感あるいは後ろめたさとの間に板挟みになり、さらに一般大衆からの疎外感を味わう。》

そのとき従来の枠組みの判断からだけで、「PTSDが非常に少なくて安堵」などと、のんきなことを言っているわけにはいかないだろう(精神科医にそう発言する人がいるのだが)。
一般に、外傷性障害が慢性化すると心気状態あるいは抑うつ状態となることが多い。融通の利かない、あるいは“偏屈な”人とみられることもある。(「トラウマについての断想」『徴候・外傷・記憶』 55頁)


…………

ジジェクを引用する、
While for us, in the developed West, trauma is as a rule experienced as a momentary intrusion which violently disturbs our normal daily life (a terrorist attack, being mugged or raped, suffering an earthquake or tornado…), what about those for whom trauma is a permanent state of things, a way of life, say, those in a war torn country like sudan or kongo? those who have nowhere to retreat from their traumatic experience, so that they cannot even claim that, long after the trauma hit, they were haunted by its specter: what remains is not the trauma's specter, but the trauma itself?

上記の論はDescartes and the Post-Traumatic Subject、つまり「デカルトとポスト・トラウマ的主体」と題されており、カトリーヌ・マラブー批判(=吟味)に終始している、もっとも親愛をこめた批判というふうにも読めて、マラブー自身、おそらくほぼ同時期になされたインタヴュー A Conversation with Catherine Malabou.(2008)  www.jcrt.org/archives/09.1/Malabou.pdfなどを覗くと、ジジェクへの友愛の挨拶を送っている。ジジェクにはもともと批判と友愛は仲良く同席する。バトラーしかり(おそらく?)、あるいは親友バディウの「動物」論に強く反撥しつつも長く親密な関係を保っているのはよく知られている。

次のエッセイには、ポスト・トラウマ的主体とほぼ同様な内容がすべてではないが記載されており、また併せてバディウの「動物論」批判もあるので付記しておこう。
Censorship Today: Violence, or ........ Ecology as a New Opium for the Masses
one should also render problematic Badiou's distinction between man qua mortal "human animal" and the "inhuman" subject as the agent of a Truth-procedure: man is pursuing happiness and pleasures, worrying about death, etc., it is an animal endowed with higher instruments to reach its goals, while only as a subject faithful to a Truth-Event does it truly raise above animality. The problem with this dualism is that it ignores Freud's basic lesson: there is no "human animal," a human being is from its birth (and even before) torn out of the animal constraints, its instincts are "denaturalized," caught in the circularity of the (death-)drive, functioning "beyond the pleasure principle," marked by the stigma of what Eric Santner called "undeadness" or the excess of life. This is why there is no place for "death drive" in Badiou's edifice, for the "distortion" of human animality which precedes fidelity to an Event. It is not only the "miracle" of a traumatic encounter with an Event which derails a human subject from its animality: its libido is already in itself derailed. One should thus turn around the usual criticism of Badiou: what is problematic is not the quasi-religious miracle of the Event, but the very "natural" order disturbed by the Event.

もちろん、この箇所の引用は、前エントリーで語られた「死の欲動death drive」の検討のためにも付記されている。

以上
# by yokato41 | 2012-05-25 19:15 | 批評・思想 | Trackback | Comments(0)
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読書ノート(ほとんど引用からなっています)。一人称単数を使った場合は半ば「フィクション」です。海外在住。


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